2020年8月28日 第43代東京パイロットクラブ会長 青木秀代エメリタスがご逝去されました。享年99歳でした。
エメリタスとは:長年パイロットクラブに多大な貢献をした会員が、体調等の事情により第一線から退いた際に与えられる称号です。「名誉会員」を意味します。
東京パイロットクラブ会員
佐竹美智子
追悼 青木秀代先生
青木秀代先生は、私の母校の養護教諭でいらっしゃいました。在学中から、何故か担任よりもよくお話させていただき、可愛がって下さいました。まさに恩師です。卒業してすぐ、横浜へドライブし、ランチに山手十番館で舌平目のムニエルをご馳走になったのも、もう40年近く昔のことです。
先生は定年退職後に、聖路加の先輩の方の引きで東京PCに入会され、その後もずっとご交誼をいただいておりましたので、よくパイロットのお話を伺いました。私は身近にロータリアンが何名もいらっしゃいましたので、ロータリーの女性版みたいなものよというご説明で、その概要が掴めました。
やがて私も教職に就き、6年程経った頃、あなたの学校にアンカークラブを作らない?とのお話をいただきました。同じ東京PCの島田燁子先生と当時の本学理事長のご縁、そして青木先生と私のご縁、いわば経営者と現場の双方に太いパイプがありましたことで、とんとん拍子にお話が進み、1年程でチャーターに漕ぎ着けました。
パイロット&アンカーにお導きいただいてはや20数年、数多くのアンカーが他では出来得ないボランティアを経験して巣立ち、私自身も学校という狭い世界から、外の広い世界を見聞させていただき、青木先生は恩師であると同時に大恩人になられました。
私的には、何件かのお見合いもお世話下さいましたが、こちらはいずれもご縁なく…先生、ごめんなさい。
100歳を目前にして、神様のもとに召された先生。どうぞ天国で安らかにおやすみ下さい。
先生、数え切れない思い出をありがとうございました。
God be with you
目白研心高等学校
東京目白アンカークラブ
アンカーアドバイザー
吹田 克也
エメリタス会員青木秀代様のご逝去の報に接し、謹んでお悔やみ申し上げます。
青木様は伝統ある東京パイロットクラブに40年の長きにわたり所属され、クラブ会長はじめ、多くの役職を務められ、パイロット活動に、熱心に取り組んでこられました。青木様のご功績を偲び、心より感謝申し上げ、ご冥福をお祈りいたします。
会員の皆様のお悲しみはいかばかりかと思いますが、この困難な時期に一丸となって前に進んでいただきたく思います。
一般社団法人パイロットインターナショナル日本ディストリクト ガバナー
中島恵子
エメリタス会員の青木秀代さんが99歳で逝去されました。青木さんは私が入会させていただいたときから毎回必ず笑顔でやさしいお言葉をかけてくださる方でした。聖路加看護大学の卒業生で日野原先生の教え子であることを誇りとされ、しかも保健師としてたしか青山学院にお勤めされたご経験から教え子さんの思い出を語られて私を和ませてくださった気配りの方で、毎回お会いするのが 楽しみでした。あの笑顔にもう一度お会いしたいです。安らかにお休みください。
東京パイロットクラブ
会長 島田燁子
永年、東京パイロットクラブに在籍下さり、貢献下さった、青木さんがご逝去されてとても、悲しく存じます。
青木さんは、東京PCの名誉会員でいらした、故日野原重明先生のご紹介で入会された、「聖路加看護大学」の卒業生でいらっしゃいました。
東京PCは聖路加看護大学生への奨学金の一部として、昭和40年くらいから、毎年寄付をさせていただいていました。(今日まで続いています)それがご縁で、当時学長の日野原先生が、毎年の「寄付金贈呈式」に、例会で講演をして下さっていました。
その当時は、「超有名人」では無かった日野原先生のユーモアを交えたお話は多岐にわたり、それはそれは楽しく、素晴らしい、講演でした。日野原ファンでらした青木さんは、大学と交渉して、この毎年の日野原先生の講演のセッティングをして下さいました。
青木さんは、「聖路加看護大学」の卒業生としての誇りを常に持って、東京PCの、福祉活動、社会貢献活動に積極的に参加なさいました。パイロット歴では少し先輩の私でしたが、時々暴走し、瞬間湯沸かし器に火が付いてしまう私を、「鎌田さん、グループでは、時には自分の気持ちを少し我慢して、もう一度冷静になって、他の人の言葉を聴いて改めて、行動することも必要よ!」と諭して下さいました。
青木さん!ありがとうございました。そして、安らかにお眠り下さい。
東京パイロットクラブ
前会長 鎌田滋子
一生の友として
青木秀代さんは1920年11月15日生まれ。聖路加国際大学の前身である看護学校を卒業後、青山学院中等部・高等部の養護教諭として定年まで勤め上げました。日野原重明先生からのお勧めもあり、1988年東京パイロットクラブに入会しました。1997年3月に目白研心高等学校に東京目白アンカークラブが誕生しましたが、この設立にご尽力されたアンカーアドバイザー吹田克也先生は青木さんの教え子です。90歳ぐらいまでは例会に出席していましたが、次第に自宅で過ごす時間が増え6年前に介護施設に移られました。ここ数年はお見舞いに行ってもお話しすることはできませんでしたが、コロナが流行るまではお嬢様が毎日お食事をともにされるなど、手厚い介護のもと穏やかに旅立たれました。
青木さんは資料の作成を得意とされていて、何かと言っては「青木さんに聞けばわかる」とみんなで頼りにしていました。また、うわさ話や徒党を組むことに全く興味がなく、耳にも入りません。小柄で痩せたご体格でしたが風格があり、PIコンベンションでは自分からにこやかにアメリカのパイロットに声をかけていました。外国人に茶道のお稽古をつけたりなど国際交流を自然となさり、大変に「パイロット」らしい方でした。
青木さんが東京パイロットクラブに入会された際、その8年前に入会していた私が先輩パイロットとしてのお世話役をしました。その時のガバナーのお話に「パイロットは一生の友が見つかるところ」という言葉があったのに触発され、「一生の友になりましょう」とお約束しました。この約束どおり、生涯の友としていられたことが何よりの私の誇りです。同じ目的で集まった大人の付き合いができる仲間というのは、幼馴染とはまた違う素晴らしいものでした。このお約束をした際「一生私が車で送り迎えしますね」とも申し上げたのですが、数年前に私も運転免許を返納しました。いつか自分たちも年を取るということをすっかり忘れていたこともいい思い出です。
東京パイロットクラブ
中島璃江子